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ギリシャ正教修道士と礼拝
神の礼賛は、ギリシャ正教修道院の修道士の最も重要な務めであり、それは神との対話で、修道士は、日に6時間から7時間、日曜と祭日には、11時間あまり、ひたすら祈り続け、忍耐と献身、そして俗世界に対する忌避の念をもって、黙想、断食をします。
修道士は、全身全霊を込めてお勤めを果たし、工作、イコンの製作、農作業などに従事し、修道士のなかには、修道士になる前は、大工であった者、庭師であった者など、さまざまな、俗世の職業に就いていたものもいて、彼らの勤めは、利益のためではなく、労働から得られる収入は、協会に寄付されたり、学校の運営資金に当てられ、社会的貢献を促すのに用いられることもありました。
修道院と、女子修道院はそれぞれ、共同体生活を監督する修道院長によって指揮、監督されて、公認の修道院は、コンスタンチノーブル(トルコのイスタンブール)の聡主教の直轄下に置かれ、一方、地方行政区の修道院は、それぞれ属する行政区の司教の管轄に置かれます。
ギリシャ正教の修道院での礼拝に加わると、聖職者席で祈る修道士の姿、お香の香り、壁や、イコンに描かれた聖人の像を照らすろうそくの光、そしてドームの高みから下方を祝福しているキリストの像に、自然と敬虔な気持ちになります。
ローマン・カトリックに代表される、「原罪論」とは、最初の人間であるアダムは、食べてはいけないりんごを、食べるという罪を犯し、その罪を犯す、という行為がすべての人間に遺伝し、人間は、生まれながらに罪人であるというもので、このような考えはギリシャ正教にはなく、ギリシャ正教では、逆に、神は、人間を善なるものと創造したとしているのです。
ローマン・カトリックでは、人間が、神を知ることができないのは、この原罪のためであるとされ、しかし、ギリシア正教では、神は、人間が表現できる次元に存在しないから、知る、知れないの話ではないとするので、この説は、どことなくほっとする、温かみのある、厳かさ、ギリシャ正教の修道院を訪れると、そんな気持ちになるのも、その考え方ゆえかもしれません。
北風が、岩間を吹き抜ける冬、野生的で、威風堂々とした光景を目にするとき、あるいは、陽光溢れる春の日に、野生の花や、潅木から発する、芳しい香に、身を包まれながら、やさしく穏やかで、しかも荘厳な景色を眺めるとき、人は、人間という存在の儚さを感じ、自然の、そして神の、存在へと導かれるのかもしれません。
2007年は、ギリシャの人びとにとって、自然の偉大さを改めて思い知らされた年だったといえ、夏は、異常気象といわれるほどの暑さで、しかも、山火事が大きな惨事を引き起こし、かと思うと、その同じ年の冬、アテネは、異例な寒波に襲われ、メテオラは、例年にない大雪で山道は、閉鎖され、修道院への観光客の立ち入りができなくなりました。
雪の閉ざされたメテオラの頂上に、うっすらと灯る光を見るとき、その厳かな、近寄りがたい聖域という雰囲気がいっそう強まる気がして、世を捨てた苦行者は、岩の頂で祈るとき、霊的恍惚感に満たされ、そこでの厳しい暮らしに、彼らを耐えさせるのも、そおうした感覚があればこそです。
世に、背を向けた苦行者たちが、初めてギリシャのメテオラにやってきたのは、3世紀の終わり頃で、人里離れた洞窟や洞穴に住み、祈りの生涯を送り、彼らの多くは一人、孤独に荒野で過ごしましたが、なかには、修道院に入る者もいて、他の修道院との共同生活のなかで、ともに礼拝に加わり、祈り、修道士たちの生活の中心は、修道院内に建てられたカソリコンと呼ばれる教会堂で、ここで正典にのっとった礼拝を行ったのです。